Vに飽きた、という話

飽きたというからにはハマっていた時期があるわけで、とりあえず出会いと、沼に沈んでいった話から始める。

 

 

 

事の始まりは昨年、2017年の冬。そもそも私は冬が苦手で、寒くなるとあまり調子が良くないのだけども、それにしたってその時期は調子が悪くて、また特別なこともなかった。

それどころか、少し嫌なことがあったりもして、もうとにかくやる気元気気力活力といったものが皆無だった。虚無期間である。

 

私は調子が悪くなると、とりあえずルーチンをだらだらこなすことで時間が過ぎるのを待つ傾向にあって、その時も適当な作業で時間を過ごしていた。また、そういう時は大体耳が寂しくなるので、作業にはお供が必要だった。

調子が良い時は音楽などを聴いたりもするのだが、調子が悪いと音楽を聴くことすらも圧になってしまって厳しい。そんな時に流すのが、「誰かが何かを喋っている動画」だったりする。

この時、私の選択肢として経験上存在していたのが「ゲーム実況動画」である。これは既知未知問わず、興味のあるゲームを遊びながら誰かが何かを言っているものであればそれで良くて、なんだったら一度見たことのある動画でも聞いていて苦にならなければ何度でも聞く、というか見る。

 

何かを作ったことがある人ならわかると思うのだが、基本的に創作物というのは作る時間と受け取られる時間に大きな差がある。一時間かけたものが一分で終わってしまう、なんてこともザラだ。

ご多分に漏れず、そうした動画も作業の裏で流しているとすぐにストックが尽きてしまう。まあようするに、見るもの、というか聞くものがなくなってしまったのである。

 

そんな私の次の標的となったのが、キズナアイのゲーム実況動画である。

最初は本当に、ただのゲーム実況動画として見ていた。最初はFacerigみたいなものだと思っていた。Facerigの存在は知っていたものの、それは主になんかよくわからん犬とかを喋らせるもの、くらいの認識しかしていなかった。私はゲーム配信などもよく見ていたので、Webカメラを使って顔を出すか否か、そしてその折衷案として、またはお遊びとしてFacerigが使われていることを知っていたし、だからそういう類のものなのだろうと思っていた。

 

しばらく見ていくうちに、それがどうも全くの別物であるということに気づいた。

どうにも、それはモデリングされたキャラクターをなんだかよくわからん技術でモーションキャプチャーして動かしているのだ。そうした技術が存在することは知っていたが、しかしだからといってそれで何をできるかだとか、そもそもだからなんだとかいうことについては一切わからなかった。

わからなかったので、興味が湧いた。

何しろ、ものすごい再生回数である。そんなに詳しくない私でも、それだけの再生回数やコメントを見れば、人気があることくらいはわかる。であれば、何が面白がられているのかを考えようとする。

そしてその結果、いつの間にか自分が面白がっていた。

何を、というのは、また別の話だ。

 

面白いと思って見ていれば、自然と内容も耳に入ってくる。そこでついに「バーチャルユーチューバー」という言葉を見た。聞いた。知った。

どうも私の見ているそれは、バーチャルユーチューバーというらしい。新ジャンルである。一通り見た後に気になるのはもちろん「他にバーチャルユーチューバーはいないのか?」ということだった。

それはすぐに見つかった。数名、名乗りこそしなかったものの類似する存在がいて、それぞれまた違ったことをしていた。それだけではない。ちょうど今から始めます、という人(人?)もちらほら出始めていた。

「もしかして、ブームか?」と思い至るのに時間はかからなかった。世間的にもそうだが、この時点でとっくに魅了されていたので、私はバーチャルユーチューバーという存在、ジャンルそのものを追いかけ始めた。

バーチャルユーチューバーは様々な活動をしていたが、その活動は今までのインターネット文脈に沿ったものだった。ただの焼き増しではない。何故ならバーチャルユーチューバーだからだ。バーチャルユーチューバーというジャンル、文脈を通して、既知未知を問わず、様々なインターネット文化を享受することができた。

特に大きかったのは、YouTube文化である。私はインターネットにおける動画投稿サイトといえばニコニコ動画だと思っていて、YouTubeを見るとすれば、それは海外の動画だったりすることが多かった。あとはまあ、母数が多いので情報を動画で知りたい時に調べる程度。

しかし、バーチャルユーチューバーを通してYouTubeの面白い動画などを見たり、それと同時に、バーチャルユーチューバーがこれまでのインターネット文脈を継承したものを見たりして、バーチャルユーチューバーを起点として、YouTubeを楽しむようになった。

 

そんなある日。ミライアカリが催事にちなんでlive配信を行った。

それまでもバーチャルユーチューバーがlive配信をしていることはあったし、私自身、インターネットにおけるlive配信をある程度追っていたので、その感覚で見ていた。

しかしそれまでは、たとえば飛び交う高額投げ銭、高速コメント、それに曖昧に反応してニコニコしている配信者、という、見るよりもむしろ想像することのほうが多いような光景だった。

もちろんミライアカリも例外というわけではなかったのだが、ただ一点、違うところがあった。

それは彼女(彼女?)が視聴者と”対話”をしていたことである。

この時、私にとっては初めて、バーチャルユーチューバーが動画投稿者というだけではなく、リアルタイムで向こう側に存在し、応答するものなのだと知った。それは既知の”配信者”そのものである。

だがしかし、それは単にサービス精神が旺盛であるとか、そういう話なのかもしれない、と思いもした。その時点ではまだ、「ひょっとしたら」という程度のことが頭の片隅をよぎっただけで、私にとってはしばらく、”見るもの”だった。

 

そうこうしてる間に、爆発的なバーチャルユーチューバーブームが訪れて、爆発的にバーチャルユーチューバーが増えて、それをただ、「色んな人(人?)がいるなあ」などとぼんやり見ていた。

 

見ているだけで、数ヶ月が過ぎていた。びっくりした。

 

――ところで、「バーチャルユーチューバー」という文字が乱雑に並んだ時、いわゆるゲシュタルト崩壊が起こる。長いし。

表記の問題でもあって、「バーチャルYouTuber」だとまあ、ある程度防ぐことができる。しかしこれも問題があって、やっぱり長い。それに日本語と英語が混じって何だか奇妙だ。だからといって「Virtual YouTuber」とすると、英語なので読みづらい。日本人なので。

という背景が、あるのかないのかわからないが、次第に「バーチャルユーチューバー」は「Vtuber」とされるようになった。和製英語というやつである。こうなると文字というよりは記号なので、識別がしやすい。

そして今度は、活動の場がYouTubeにとどまらなくなり、「それはバーチャルユーチューバーではないよね」という話に、なったのかならないのかわからないが、様々な呼称が飛び交った。

そして残ったのは「バーチャル」である。ただ一つの共通点であるバーチャルだけを取って、究極的に短縮されたインターネットスラングが、「V」である。

 

つまり何かというと、今さら表題の説明をしている。

さらにいうと、これは個人の見解であって、実際そうかどうかは責任を取れないし取る気もない。

 

閑話休題。 

 

Vといえば3Dモデルをモーションキャプチャーで動かすもの、という概念に変革をもたらしたのが、にじさんじである。

元々その時点ですでに、全身を動かす必要のない活動が増えていて、またその需要もあったことから、半身だけを映すなどの変化も生じていた。

半身を映し出された時、人がどこを見るのかは当然自由なのだが、概ね表情、つまり顔を見ることになる。

しかし、3Dモデルの全身モーションキャプチャーでは、表情の微細な変化を表現することが難しい。全身を使った表現ならまだしも、それが半身になってしまうと、表情による伝達が不十分なのである。

それを逆手にとって、全身ではなく表情を伝えよう、という試みがなされた。

これは一つ、キャラクターを用意するにあたってのコストの問題がある。全身を用意した上で半身や表情しか使わないのはもったいないのひと言だが、そもそも重要視されている部分が果たしてどこなのかということを突き詰め、また可動域が少ないことはコストの削減に繋がる。

それにそもそも、何にしろ表現というのは伝わればそれでいいのであって、日々の感謝を詩にすることは少ないし、日常会話で大仰なジェスチャーをする習慣は、少なくとも私にはない。

別に私は何も関係ないのだが、まあそういった経緯があったのだろうと仮定する。いわゆる折衷案だ。そうして登場したのがLive2DとFacerigを使った2DモデリングのVである。

 

なんというか、これについて身も蓋もないことを言ってしまうと、量産体制とはこのようにして作られていくのだな、と思った。

手間と技術のかかるプロトタイプから徐々に要素をデチューンしていき、最終的にコストパフォーマンスの良いところで大量生産が始まる。

そう、大量生産が始まった。

 

爆発的に増え始めたVに対して、私は相変わらず見るものという姿勢でいた。

何しろ当初の目的が「耳が寂しい」ということだったので、行動が制限された結果、何かをするというよりは喋ることに重きがおかれるようになったことはむしろ都合が良かった。

彼ら彼女らは、各々が話せることを話し、そして、視聴者との対話を始めた。

 

当然の帰結である。人間ひとりが話し続けることには限界がある。既存のコンテンツを取り上げようにも、行動が制限されていては出来ることと出来ないことがある。であれば、そこにいる人と話そうとするのは何らおかしなことではない。

これに気づくのに、私は少し時間がかかった。その時Vは、「配信者」でもあるようになった。

 

私もいわゆるlive配信というのは、古くはlivedoorねとらじやなん実、先駆けとなったPeerCast、隆盛を極めたニコ生、Twitchなど、様々な場所で見てきた。それらと動画投稿者の大きな違いは、コミュニケーションの双方向性である。

つまり、Vは会話が可能なのである。もちろん、視聴者があまりにも多ければそれは難しいだろう。しかしその時、視聴者はリスナーという大きな概念の一部となり、配信者と語り合う。

 

でも、という疑問の声が私の中で挙がった。であれば、既存の配信者と何が違うのだろう。もちろん違う。その違いについては様々な識者が様々な仮説を打ち立てており、私も概ね同意する。しかしそれは、主に発信者・配信者や、受け手・視聴者の勝手な都合であって、既存の配信者との違いについて何ら説明にはなっていない。

ゲームをします――なら上手いゲーム配信者はいくらでもいる。

お話をします――なら単純に他人と話せばいいし、既存の配信者もお話をする。

ラジオをします――ならラジオをつければいい。

 

人間はコンテンツではない、と私は思っていて、しかしキャラクターを楽しむにはあまりにも人間味が強すぎる。現に目の前では多額の金銭が動いており、それは当然で、企業が投資して作られた存在なのである。

人間にコンテンツとしてお金を払うことに、私はどうしても抵抗があった。

しかし、目の前の存在は集金がままならなければ消えてしまうのである。結果として私が何もしなくても、どこかの誰かがお金を払って存在しているとはいえ、そこにあるのは最早市場と取引である。好事家の趣味をなんとなく楽しむならまだしも、コンテンツと対価という話になってしまえば、漫然と口を開けて楽しむことは憚られる。

 

わかっている。動画が伸びれば広告収入がある。人気が出ればお声がかかったりする。誰かが得をするからそれは存在する。そんなことはわかっている。それでもなお、直接お金を払うことにはなぜだか抵抗があった。

払った分の対価を求めてしまうかもしれないから。

 

話が戻るのだが、既存の配信者とVの違いは何なのかといえば、それは「今まで出てこなかった人が出てくるようになったから」にほかならない。それはつまり、もしこの文化が生まれなければ、生涯お目にかかることがなかったであろうものを見ることができるのである。その魅力には抗いがたく、しかし”仕事”として配信をされたとき、その拒否反応は著しかった。

 

そうしているうちに、今度は本当に個人でやり始める人が出てきた。

 

個人の魅力は、個人であることである。それは企業ではないことを意味して、強い市場も存在しない。彼ら彼女らは好きに始めていいし、好きに辞めていい。始めなければならない理由もなければ、続けなければならない理由もなく、辞めなければならない理由もない。

それは商売ではないから。

お金というプレッシャーのない相手はとても気楽で、ただ純粋に楽しみ、話すことができた。それは本当に趣味の世界であり、また日常でもあった。

いつしか、非日常であるVに対して、日常を求めるようになっていた。

しかし、Vという文化の速度はあまりにも速かった。日常の中の非日常な日常は、あっという間に市場を形成し、安穏な日常は残酷な現実に変わっていった。

それは商売になった。

 

何もおかしなところはない。趣味が高じてお金になるのなら、それは良いことだと思う。だが、人格には連続性がある。連続性があるから人格である。それを秘匿された外的理由によって変化させられた時、そして相手を人間だと認識していた時、それについていくのは非常に難しい。

不可能ではない。他人なんてそんなものだろう。何もかも知ることなんて出来ないし、知っていたらそれはそれで気持ちが悪い。ずっと一緒にいるわけでもなかろうに、そうした変化を込みで受け入れるのが人間関係というものだろう。

 

ここで今度は、Vのキャラクターという側面が足を引っぱる。

それが本当に生身の人間であれば、些細な変化から理解することもできただろう。しかし、実際目の前にいるのは一寸たりとも変わらぬキャラクターである。

外見の連続性と、内面の連続性に著しい乖離が生まれた時、脳がバグる。

 

最初はそれでも飲み込めた。相手だって生きているのだ。様々な事情はあるだろう。

でも、それは赤の他人なのである。

あるいは旧友。あるいは身近な相手であればそうした努力もできるかもしれない。でもそれは他人なのである。お互いにどこの誰とも知らないのである。そもそもコミュニケーション手段の関係で、情報量があまりにも違う。

 

そうして理解はより一層困難を極め、何がどうなっているのかわからなくなる。裏に何があるのかを常に考えるようになり、疑心暗鬼になりながら、ただ文化の推移を見ていた。

 

気がつけば、虚無期間は終わっていた。それはひょっとすると、彼ら彼女らのおかげなのかもしれない。いずれにせよ、私には私のやることやりたいことがあり、その合間に、時折見たり聞いたりするような存在に変わっていた。

 

そして、何が楽しいのか、わからなくなった。 

 

何が楽しいのかわからなくなった時、何が楽しかったのかを考えることになる。

そもそも、私はVを見るものだと思っていた。そういう考え方もあると思う。しかし、一度それを人間だと認識してしまった時点で、私はそういう姿勢のままではいられない。見世物小屋ではないのだ。

人間だと認識した段階で、私が他人に求めることは日常である。簡単なようで難しいことだと思う。強調したいが、本当にあくまでも”””私が”””他人と接するときに何を望んでいるのかといえば、日常を覗いたり、お邪魔させてもらったり、共有したりすることだ。

人間関係において損得勘定はもちろん存在するけれど、金銭的な共存関係が前提かというと、これまた難しい話だが、出来ればそうじゃないといいと思っている。

 

コンテンツにお金を払うのは当然だ、という説がある。ごもっともだ。しかしコンテンツという同じ目線で見るのなら、今までに見てきたものと比較し、評価する必要がある。私は何よりも、それをしたくない。

だから私は、ただ日常を求めている。

 

非日常であるVに日常を求めた時点で、私はとっくにVに飽きていたのかもしれない。そこに残るのはただ、出会うことがなかったかもしれない相手に出会い、その瞬間、その一時を過ごす、ということだけだ。

それをたとえ私が望んでいたとしても、相手が望んでいるとは限らない。むしろレアケースだろう。また、私のような奇人変人も少ないだろうから、そういう層を狙うというのも、Vをやる上では間違っている可能性が高い。

つまり、私はVに飽きているし、Vにとっても望ましい存在ではないということになる。

 

それでもVに縋るのは、情けないことなのだと思う。お互いの意図は違えど、その瞬間に成立することに、お互いの利益がある。それはVに限ったことではなく、人間なんてそんなものだろう、というどうしようもなさに甘えている。

 

そんなわけで、私はVという文化には興味があり、しかしVには飽きていて、ただ人と話し、聞くことを楽しみに、Vを見ている。