人的コンテンツというカルマ

そもそもあんまり他人と話さないじゃん、みたいなことはさておいて。

他人と話す、もしくはそれを見ているときに、「他人との話し方」は大別して二種類あると思う。

 

 

「話し手」と「聞き手」である。

 

会話というのはキャッチボールだのドッヂボールだの、クソの投げ合いだのと色々な解釈があるとは思うが、皮肉にも最後のたとえが一番わかりやすい。

何かを投げることが会話である。何も投げなければ発生しない。つまり会話が発生するとき、最低限必要なのは「話し手」である。

――というところまでは意識的無意識的にかかわらず、ほとんど周知の事実である。なので、会話というのは「誰かが何かを言う」ことで発生する。

 

つまり、誰かが何かを言えば会話が発生する。成立するかは別の話だ。

成立させるためには「聞き手」の存在が必要になる。会話というのは相手がいなければ成立しない。それがたとえ壁などの無機物相手だったとしても、相手さえいれば成立していると豪語することが可能である。

もちろん、壁を相手に言葉を発して、それを会話だと豪語すると白い目で見られる。できれば有機物であるほうがより健全だし、理想は人間であれば人間を相手にすると良いとされている。

 

人間相手に言葉を発すること。これが会話の最低ラインである。

 

そうなると次の問題が生じる。発した言葉を理解納得できるかはともかく、聞く人が必要になる。人間がふたりいたとして、ふたりとも同タイミングで言葉を発し続けている状態を会話と呼んでいることはあまり見たことがない。たまにあるが、そういう話はしていない。

多くの場合、誰かが喋って、誰かが聞く。それが会話であるとされている。

 

 

ここまでは共通理解だと思う。

ここからは主観が入ってくる。

 

 

良くある言説として、「聞き手」の需要が高いとされている。曰く、「みんな話したいので、聞いてくれる人は大事」とか、そんなんである。

完全な私見だが、この感覚で過ごしている人が大多数なのではないかと思う。

 

そりゃそうだよな、と思う。

誰だって何か話したいし、聞いてもらいたい。だから話を聞いてくれる人はとても大事。その通りだ。

 

そしてこれも完全な私見だが、その結果として、大多数の人が「聞き手」を自称する。その内実はわからないが、とにかく「人の話を聞く」という姿勢であることのほうが多い。

 

あくまでも体感だし、完全な私見である。

 

「みんな話したいけど、自称聞き上手」なのである。何を言っているかわからないが、とにかくそういうことになっている。

 

観測範囲が限定的だということもあるが、あまり「話し手」は多くなく、「聞き手」ばかりだということが往々にしてある。

ここで「本当に人の話を聞くというのは――」とか、「そんなこと言っても結局みんな話したいことあるじゃないか」とか、そういうのは別の話である。

とにかく話すか聞くかの選択を迫られたとき、体験としては聞くほうに回りたがる人が多い。話したがる人は少なく、そのため重宝される。

 

 

 

 長くなったが、ここからが本題となる。

 

 

 

「聞きたがり」の多さ故に、「話し手」の存在は重宝され、その役割を任される。このとき、話し手の話す内容は面白いことが当然のように要求される。誰もが面白い話を聞きたがるのである。

面白い話をする人の周りにはたくさんの人が集まる。それはまるで芸人に一発ギャグを期待するかの如く。

それが仕事であるのなら。そういう場であるとあらかじめ全員が理解と承認をした上でなら、それを否定することはできない。が、多くの場合そうではない。何となしに集まってそうした状況が起こることが自然で当たり前のようになる。

 

人をコンテンツとして扱う瞬間である。

 

こうした状況が蔓延すると、会話の際にスタンスが二極化していく。「面白い話をする人」と「面白い話を聞く人」である。

 

そんなわけがない、と思う。

上述の通り、会話というのは双方向に話したり話さなかったり、聞いたり聞かなかったりすることであって、そこに面白いだのなんだのという要素はまったく関係がないはずである。

しかしながら、どうにも最近ここまで述べた思考を当然のようにしている人を散見したので、こういうことを書いている。

 

この思考が前提になると、大きくふたつの発想が生まれる。

ひとつは、「誰かが面白い話をしてくれるのは当然であり、面白い話をしない人はつまらないので関わらない」という発想。

ふたつは、「人を楽しませるのが会話であり、それができないので会話が苦手(下手)である」という発想。

 

根本的に会話というのは理解や知見、共感のためのものであって、そこに面白いだの楽しいだのというものが付随するのは「結果」であって「前提」ではない。なぜなら、面白いだの楽しいだのというのは主観と感情の問題であり、前提に置くと理論が破綻するからである。

 

面白いだの楽しいだのというのは結果なので、そう受け取れるかどうかは聞き手にかかっている。

 

これは非常に重要な前提である。この前提があれば、会話を面白かったり楽しかったりするかどうかは聞き手次第であり、話し手が面白いことを話そうとする必要もなければ、話し手の「面白い」を押しつけられることもない。

逆にこの前提がないと、聞き手は話し手に会話の質を委ねてしまう。時には話し手の「面白い話」をさも面白いように聞くことになり、如何にして「面白そうに聞く」ことができるかどうかが「聞き上手」であるかの基準になる。

 

 

他人がコンテンツであるかどうか、という考え自体は、人によるので何も言えることはない。

だが、「人がコンテンツであることが当然であるという考えの人」は、とにかくきつい。このきついというのはもう個人の感想である。きつい。

 

まず、上記の思想の人は面白いに違いないとばかりに話をしてくる。これに対して反応できることは少なく、面白いフリをするか、しないかである。

反応が薄い場合、「つまんねー奴だな」とばかりに機嫌が悪くなるか、「面白い話をできなくて申し訳ない」とばかりに萎縮するかのどちらかである。

こちらから話す場合も面白いことを前提にされるし、何の合いの手や引き出しに触れることもなく、ただ黙って聞こうとしてくる。別に話したいわけでもない場合でも常にそういう態度で接してくる。

 

会話というのは応酬であるので、上手く引き出したり合いの手から話題をつなげる必要があるのだが、それをまったくしない。それはまるで、ただ言葉を合わせて話題という長いものにして投げつけ合うかのように。

 

「コンテンツのように面白い人」と「人はコンテンツとして面白い」は、字面こそ似ているが別の話である。

人は人である。コンテンツではない。人はコンテンツになり得るが、人はコンテンツではない。

 

 

 

コンテンツになり得るような人とはなんだろうか。まあ色々あるとは思うが、個人的に思うのは、「人生を楽しくやっている人」である。楽しそうにしているから面白いのであって、それは他人なんか関係なく、ただその人が人生を楽しく面白く過ごしている、というだけだ。

ちなみに逆も成立するのが悲しいところで、めちゃくちゃ不幸だったりする場合もコンテンツたり得る。いわゆる笑うしかないというやつである。

 

しかしそれはあくまでも結果であって、そうなろうとしてなれるものではない。出力には入力が不可欠だが、出力のために入力をしているわけではない。

 

いわばコンテンツというのは副産物のようなものであり、それを勝手に他人が楽しんだりつまらなかったりする、というだけである。

結局のところ、各々好きなようにやっていくしかなく、好きなようにやっていけない場合、上述のような目的と手段が入れ替わる事態が発生するのではないかなあ、みたいなことを思ったりした。

 

 

蛇足だが、一度コンテンツになろうとすると一瞬で修羅の道になる。一方通行な上に、降りる手段に乏しい。ひたすら人間性を切り売りすることになり、面白くなるために人生をやることになる。

人生はどうせ続くので、わざわざ厳しくする必要はないんじゃなかなあ、とか思ったりするのだが、それでもコンテンツたり得る人は素直にすごいと思う。

 

そのつもりなだけの人は見るに堪えないけども。