ヒトはどうして課金や投げ銭をするのか
結論から言うと「もっとも身近な快楽を得る手段だから」である。
先日、Twitterのタイムラインに流れてきたソーシャルゲームの廃課金に関する記事を見て、うわぁ、と思った。
それに限らず、以前からそういった類の記事を見たり話を聞いたりしては、うわぁ、と思っていた。
これは配信の投げ銭やクラウドファンディングなどを見ても思うことで、いずれにせよ少額ならともかく、大金となるとこれがわからない。
ちなみに少額というのはもちろん「自分が妥当だと思う金額」のことであるし、大金というのは「自分には理解できない金額」のことである。具体的にと言うと、それはまた別の話。
そもそも価値基準というのは人による。良く言われるのが、
「そのお金で他にこんなことができる」
というやつである。
それはまあその通りなのだが、しかしこれもまた主観的な話である。なぜならそれは
「(私は)そのお金で他にこんなことができる」
という意味であって、誰もができることではないからである。
いやそんなことはない、と思うのは少し見識が狭い。
たとえばタバコと車の逸話というのがある。何年吸わなかったらベンツが買えた、とかそういうやつ。
あれも少しお門違いで、たとえば車に興味がないとか、そもそも免許証を持っていないとか色々ある。
まあ、この話も今となっては、昔は自動車がステータスだった、という背景があるのであまり参考にはならないのだが。
なので、「ベンツは買えても維持費が」とかそういう野暮なことを言う必要も特にないだろう。
そんな感じで、モノの価値というのは人によって違う。
さらに言うと、毎日500円貯金するのと、毎日500円余分に使うのとでは、一年で18万円手に入るか、一年間18万円分の贅沢をできるかの違いがあるが、どちらを取るかは人によるし、これをどこまで切り詰めるかも人による。
そして、毎日500円というのは、一ヶ月で15,000円ということである。
それだけあったら何をするか。というのは、再三になるが人による。
人による人によるって、そればっか言ってんじゃねえよ、とか言われそうなので、人の何によるのかについて触れていきたい。
まず、大前提として、散財というのはとても気持ちが良いものである。お金を使うというのは、とても楽しい。
ここには複雑なプロセスがあると思うのだが、しかしそこに説明は不要であると私は考えている。
気になるという方は調べればきっと面白いのだと思うが、これに関してはほとんど伝わるんじゃないかな、という根拠のない自信があるので、これ以上の説明はしない。
ここで重要なのが、お金を使うということは、そこに紙幣を利用できる市場が存在するかどうかということである。なければただの紙切れや金属だ。
お金というのは支払うものなので、何かを購入するとか、代金を払うとかする必要がある。
ただ、なんでもかんでもお金を使えば気持ちいいというわけではないのが問題で、「自分が納得できるもの」に「自分が納得できる金額で」お金を使うと良いとされている。
どこでされているのか。私のなかで。
まあでも、私だけではないような気もしている。だからこそ、
「(私は)そのお金で~」
と言われるのだから。
さて。どうやってお金を使うかであるが、可能性は無限大のようでそうでもない。私見だが、育ちの問題というか、どれだけお金の使い方を知っているか、みたいな話になってしまい、ここを広げると私の育ちが悪いのがバレてしまうので、なるべく小さく話をしていきたい。
そもそもこの話は、廃課金や高額投げ銭を見て思った、という話なので、その代わりに何ができるか、ということになる。
これは実は難しい話で、良くソーシャルゲームの廃課金、つまりガチャはパチンコなどにたとえられるが、実際にパチンコというのはすごく時間がかかる。最初から捨てる気でただ突っ込むだけならそんなに時間はかからないかもしれないが、やるからには誰だってそれなりに当てるつもりで挑むだろう。そうすると、まあ半日くらいは飛ぶ。もちろんお金も飛ぶ。
何が言いたいかというと、一部廃課金というのは、違法賭博でもない限りはそんな短時間で消費しきれないのである。単純にその金額のモノを買う、というのなら話は別だが、先述したように、そもそもお金の使い方というのは知っているかどうかが問題であるし、高額の買い物というのは「買った、使った、はい終わり」で済まない場合が多い。どちらも同じくらい大きな問題だ。
お金を使うというのは、つまり経済活動をするということになる。それには、
「体力」
「気力」
「財力」
が必要になる。そうでないものもあるが、大体がそうだし、今回はそういうことについての話をしている。
15,000円を使う、と考えたとき、これがまた微妙な金額で、実は大したものは買えない。これが30,000円であれば、まあ色々思いつくところもあるのだが、15,000円となると難しい。
シンプルに考えて、15,000円で豪勢な食事をするとしよう。これもまた使い方の問題があって、それだけの価値がある、と認識できるかどうか、つまり舌の問題になる。
わからないとなると、質より量になる。味がわからなくても量なら大体わかる。程度の差はあるにせよ、ひとりの人間が食べることができる量というのは、それほど違わない。例外はあるが、例外は例外である。
質より量が流行るのはここらへんが理由なのかな、とも思うが、これもまた別の話。
(いやだってわかんないじゃん実際さぁ……)
ついでに言うと、いいもん食おうと思っても、やっぱり15,000円というのは微妙な金額だったりして、この際だから倍にしてもいいが、それでもわからないという問題が消えるわけではない。わからなければ意味がないのである。
何より、それなりの食事をしようとするには、気力と体力が必要である。
まず自分で調理するのならそのぶんが必要になるし、外食するにしても高級店で食事するために、店に行く体力や、精神的ハードルなどを越えるための気力と体力が必要になる。
そうするとやっぱり、量になる。なんかこう、コンビニの商品全制覇とか、そういうやつになる。
食べきることができればいいが、人間が食べられる量は以下略。
まあ、別に一度にやる必要はないよな、という話になって、数日、数週間にかけてやればいいのだが、それだと時間がかかる。
そう、時間がかかるのである。
他のなんでもいいのだが、多くのモノはお金を払っただけの価値があって、往々にして長期的に効果があったりする。その瞬間にその金額分の快楽を与えるようにできていない。
そして、長期的に効果があるモノというのは、長期的にそれに取り組んだり有効活用する必要があって、それにはやはり気力と体力が必要になる。
一冊の本や一曲の音楽が人生を変えるかもしれないが、読んだり聴いたりしなければ意味がない。いや読めよ聴けよという人は気力と体力があるからそう言えるのであって、それができない場合、どうなるのか。
そもそも、本なら図書館に行けばいいし、音楽だって無料公開されているものはたくさんある。しかし、本を借りに行くというのはできる人が思っている以上に気力と体力を使う。
動画配信サイトなどが良い例だと思う。どこそこはたくさん視聴できるだとか良く言うが、最新作ならともかく旧作ならレンタルショップで借りてくればいいのだ。片田舎だから、という場合もあるだろうが、取り寄せてもらえないことはない。まあもうわかる人はわかるだろうが、これが面倒だから動画配信サイトを利用するのである。
面倒、というのはつまり、気力と体力を使いたくない、もしくは、ない、ということである。
いずれにせよ、それだけの価値はない、と判断している。
これは私見なのだが、「お金を払ってそれで済むならいいよ」という人は、けっこういるのではないだろうか。こと娯楽に関してはそういう傾向があるように思う。
この考えの行き着く先が、蒐集なのではないだろうか。
(なのでまあ、集めるのが趣味な人の集めたモノを勝手にどうこうするのは、個人的にはどうかと思いますけどこれも別の話)
だがしかし、これもまた問題があって、場所である。物理的空間がないと蒐集というのは難しい。また、蒐集するからには少なくともその価値が、本人以外にもある程度理解できる人には理解できるモノであることが多く、それはもうすでに教養である。
そこまで熱心になれるモノがあればいいが、そうでない場合は、どうなるのか。
それは決して、やる気がないとか、根気がないとか、そういう話ではない。
気力がないのだ。体力がないのだ。他の言葉に置き換えてもいい。とにかく、お金では解決できない、どうにもしがたい大きな問題がそこにある。
そうなったとき、他人にとっては別のことができる金額であっても、瞬間的に金額分の効果が発揮されるモノというのは、限られてくる。
費用対効果という言葉がある。コストパフォーマンスとか言われるアレ。
”時間”というモノも含めるならば、確かにこんなに良いものはないだろうな、と思う。なにしろ即時だ。その上、他人に払っているようで、「お金を使った」という快楽自体は自分のみが享受できる。そこからさらに他人からの感謝や賞賛でもあれば、それはもう、めちゃくちゃ気持ちいいだろうな、と思う。
一瞬だけだろ、と思うかもしれない。むしろ逆だ。一瞬でそれだけの価値があるのだ。そんなものは他にそうそうない。見なくても、聞かなくても、読まなくてもいい。使った。ただそれだけで金額分の効果がある。これはすごいことだ。
もっとも身近な、気力も体力も必要ない。なんなら財力すら生活を削るだけでいい。人生も削るかもしれない。しかし、いつでもどこでも、座ったままでも寝転んでいても、それができるとすれば。
――とか、そんな感じなのかなぁ、なんて思う。
特に廃課金なんかはまさにそうなんだろう。物理書籍と電子書籍の違いが場所を取るかどうかであるように、物理蒐集も電子蒐集もそんなもんだろうな、とか。
いや書籍は全然違うのはわかるし、蒐集なんて自分で管理できないと意味ないんじゃねえの、とも思うけど、瞬間的には同じで、この”瞬間的に”ってのが大きいんじゃないかなぁ、など。
投げ銭なんかも、Tierとかドル単位だったりすると、まあなんかそういうことなんだろうなと思う。
なんだろう、目の前のことへの対価とは思えないし、そうだったとして、それはなんか、「人生を代わりにやってくれ」代にしか思えんのだが、人生は自分でやっていくしかないんじゃないかなって、思わなくもないよ。
まあ色んな事情や理由はあるんでしょうけど、なんでかなーって考えたときに、端的に「依存」とか「中毒」とか言われても納得いかなかったんで、自分なりに納得いくのはこんな感じ。
ここからは私の話なので興味なかったら見なくて結構。
私自身、ソシャゲにはそこそこ金払うけど投げ銭はどうもする気になれなくて、未だに一度しかしたことがない。しても特に楽しくなかったので、それ以降やったことがない。
ガチャにしても、気まぐれを除けば出るまで回すし、その都度どちらかというと嫌だなあという気持ちでいる。なんか値段の決まってないモノに手を出してる感じがして、身の丈に合ってないよなぁ、とか思う。
まあでも、金払う以上は続くまでやるし、納得できるだけの価値は一応あるのかなーと思わなくもないが、同じゲームだったらソフト買ったほうがいいよなとも思う。
思うんだが、同じゲームとして扱ってないんじゃないかと個人的には思っていて、じゃあなんだろうってなったときに、行楽みたいなモノなのかな、と。
ソシャゲにも使うけど、それこそまさに気分の問題で、その時々で本だったり音楽だったり映像だったりゲームだったりする。
でもどれにしたって、やるぞ、ってなったらやっぱり10,000円くらいはかかっちゃうわけで、まあだったらそれに似た何かなんだろうな、と思っている。サブカル趣味って大体本腰入れたら一行動に10,000円くらいかかるような気がする(初期費用抜きで)。
ただやっぱ投げ銭だけはわかんなくて、良くドブに捨てるっていうけど、ドブに捨てたくないから人にあげたいのかなー、とか思う。でもだったら自分のために使おうぜ、と思うけど、お金を使う快楽が自分のためなんだ、と言われたらなんも言えねえ。
っていうかそう考えたら私自身そういうとこあるしな、とか思ったりなんかした。
最後に、完全に相手のため、他人のために与えているんだ、というのもあると思う。
ただ、それですら気力と体力がないからそうしているように思う。だったら家族や友人と過ごしたりすればいい。それをする(そもそもつくる)気力と体力がないから、自分の範囲でやってるんじゃないのかと思う。
少なくとも、私はそうだ。